浪漫ウォーク<TOWN WALKING>


湯島・池之端散策   2024/11/07

 

○主な見学場所

不忍池弁天堂→境稲荷神社(弁天鏡ヶ井戸)→(東京大学医学部付属病院・池之端門) →横山大観記念 館→昼食 11:45 東天紅 9階 「LUCIS GARDEN」→旧岩崎邸庭園

◯参加者10名



・不忍池・弁天堂 : 忍池辯天堂は、江戸初期の寛永年間に、 天台宗東叡山寛永寺の開山、 慈眼大師天海大僧正 (1536~1643) によって建立された。 天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していった。 天然の池であった不忍池を琵琶湖 に見立て、聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷 (みずのや) 伊勢守)勝隆と相談して島を大きく造成することで 竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立した。 昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまったが、お堂は昭和 33 (1958)年に復興し、 また昭和 41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望画伯による龍の天井絵が奉納された。

・境稲荷神社:文明年間(1469~1486)に室町幕府第九代将軍足利義尚が再建したという。 『境稲荷』の社名は、この付近が忍ヶ 岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来する。 社殿北側の井戸は、 源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁 慶が見つけ、一行ののどを潤したと伝えられ、 『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。 一時埋め戻したが、昭和 15年に再び掘り出し、 昭和20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。 井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑 で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。

・横山大観記念館 : 上野池之端不忍池のほとりにある横山大観旧宅は、 木造 2階建ての数奇屋風日本家屋で自身のデザインによ る京風数奇屋作りの建築と庭園が、 大正8年にこの場所に建てられ、 自宅兼画室として使用されていた。 東京大空襲で蔵や石造 物などの一部を遺して焼失したが、 昭和29年(1954) に以前とほぼ同じ形で再建された。 大観は亡くなるまでここに住み、制作活 動を行った。 和風建築の雰囲気を生かし、軸装の作品などは、 そのまま床の間に掛けて展示する。 靴を脱いで入る日本建築の良 さを体験し、大観の細やかな意匠を十分に堪能できる、 現代では貴重な空間といえる。 ※庭園約 400 坪 

横山大観記念館は靴を脱いで上がります

・旧岩崎邸庭園:1896年(明治29年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造てられた。 往時は約1万 5,000 坪の敷地に、 20棟もの建物が並んでいた。 現在は3分の1の敷地となり、 現存するのは 洋館撞球室 和館の3棟。 木造 2階建・地下室付きの洋館は、 鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋 木造建築で、 館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、 同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデ ザインが、 往事のままの雰囲気を漂わせている。 別棟として建つコンドル設計の撞球室 (ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍し いスイスの山小屋風の木造建築で、 洋館から地下道でつながっている。 洋館と結合された書院造りの和館は当時の名棟梁大河 喜十郎の手によるものと言われている。 床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁 画などが残っており、 現存する大広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築を垣間見ることができる。 大名庭園を一部踏襲 する広大な庭は、 建築様式と同時に和洋併置式とされ、 「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。